2008年01月12日
「愛する母へ」 "A mi querida madre"
久々の記事です。ブログを立ち上げた時の気持ちになっています(ドキドキです)。何を書けばいいのかなぁ
今回は母のお母さんの話です(私のおばぁですね)。私の母は6名兄弟の末っ子なので、アルゼンチンに嫁ぐことになって、母は(甘えん坊だったんでしょうね)自分のお母さんの元離れたくなかったそうです(絶対に
)。アルゼンチンへ渡って、淋しそうな私の母に、父がもう一回沖縄に戻って、お母さん(おばぁ)に会わせるという約束をしました。しかし、仕事も忙しく、子供も小さかったため、沖縄に戻れないまま、故郷に残されたおばぁは逝ってしまいました。その話は、母から何度も聞いています。悲しかっただろうなぁ
今日の記事と花はおばぁに捧げます
母が愛する自分のお母さんについて綴った文書はこちらです↓
『母は喜納の長女です。母親が若くして未亡人になったためと、昔の士族の女そのもの、口数少なく、話す言葉にも気をつけての毎日ですから、井戸端会議のまわりのおしゃべりにはどんなに誘われても加わらず、よく働き母親を助けていたと他の人から聞きました。
財産家の私の父の母親も若き未亡人であることから、未亡人同士仲良くなり私の両親は結婚に至ったそうです。背が余り大きくない母、結婚当日も4名兄弟の大男の誰が自分の夫なのか分からなかったそうです(えっ?それでも、夫&妻?)。女が顔を上げじろじろ見るのは、はしたないことでした。
母は財産家の父側の言うまま、伊江島の真謝で小さい長女を連れて落花生作りに精を出していたが、子供の将来のためにと本島に戻ったそうです。飲み水汲むところが危険な場所でした。大男の父親はもらった伊江島の土地が気に入ったそうですが、父も仕方なく後から戻る。
父の母親は大変厳しく、本島に戻るなら財産は自分たちで作れと援助が受けられません。母は身を粉にして働いたそうです。
まず豆腐作りを開始、土地を少しずつ買い足して屋敷を求め、桑の木を植え、蚕を飼い、絹糸を紡ぎ機を織り反物に仕上げる。勿論芭蕉布も仕上げる。
6名の子供たちにも恵まれ、良妻賢母のままでも一番充実して幸せだったかもしれなせん。
豚、牛や小動物、農仕事、米作りもする。芋や野菜も売るという、私には真似の出来ないやり方です。昔の女性は本当に偉かった。娘たちを一人前にするための料理や絹糸の紡ぎ方と時間が足りなかったと思います。
いつ寝ていたのか。蚕は乾いた桑の葉しか食べません。2時間毎のおいしい桑の葉をまくだけでも夜の仕事はきついものなのに。
働きづめの、でも優しかった母でした。
その母が自分の命よりも惜しい長男兄が海軍で海の藻屑と消え、その上戦後のドサクサの後、馴れない那覇での商いの生活の苦労だけして、大腸癌になり、手術に堪える抵抗力もないので手術もせず69歳の若さで亡くなりました。
愚痴を言わなかった母だけに情けない。時代がいけなかったのか。せめてもう少し長生きし、再会出来なかったのか。40年経った今も6月1日となると私は泣きます。
親孝行したい時に親はなしが私の本心です。
第1の後悔と言いますと愛する母に外国に居たせいで再会できなかったことです。
今母が逝った年が私の数え年になりました。』
まだまだ続きますが、読む方も、解読(私!)する方も大変なので、今日はこのへんで。
スペイン語訳は、うむ...半年くらいお待ちください